Outline
「川端家住宅」は群馬県藤岡市、中山道沿いに位置する歴史的建造物です。日本の近代化を支えた絹産業の拠点だった北関東。ここで養蚕から始まり、生糸の貿易で成功した川端家により江戸後期から昭和にかけて作られた、19棟に及ぶ登録有形文化財(建造物)を含む建築群です。主たる生活の場となる主屋、迎賓のために設けられた豪壮な別荘。この2棟を見事な庭園がとり囲みます。かつては「一町屋敷」とも呼ばれた広大な敷地には、蔵や井戸、稲荷社などが配され、そのほとんどが文化財として登録されています。しかし、二つの門と二重の塀に隔てられ、また実際に住宅として使われていることもあって地域でもその見事さはほとんど知られることがありませんでした。
そして、川端家にはもうひとつの顔があります。現在の所有者、蔡兆申とパートナーの嘉子が、この屋敷に新しい命を吹き込みました。中国にルーツを持ち台湾に生まれ、日本、アメリカに学び、今も量子物理学の研究者として活躍する蔡兆申。川端の血を受け継ぎアメリカでインテリアを学んだ蔡嘉子。二人は、一度は荒廃していた川端家に、情熱と時間を惜しみなく注いで、創造的に二人のライフスタイルを表現しました。絹産業で得られた莫大な富による文化財建築に、豊かな経験を持つ二人のライフスタイルを表現するインテリアとエクステリア。他のどこでも見ることのない濃密な世界が、川端家住宅を隅々まで満たしています。
Architecture
川端家住宅の敷地内には、19棟の登録有形文化財(建造物)があります。ここでは、今も住まいとして使われている「主屋」と、迎賓館として作られた「別荘」の2棟、そこに至る際に通過する二つの門を紹介します。
主屋
かつて「一町屋敷」と呼ばれた川端家の主屋。建築面積は218㎡。江戸期の農家の骨格を基に、養蚕業の発展に応じて一部を二階建てに改装。蚕室の通風を確保するための櫓などに養蚕農家の特徴が見て取れます。半面、現在の住まい手の個性を、最も色濃く反映した建屋となっています。大門をくぐって主屋に至る庭に置かれたバリ風の水盤に驚いたとしても、屋内に入ればそんなことはすぐに忘れてしまいます。日本建築の軸組みの構造を逆手にとった自由な空間の読み替えで、連続性は活かしながら次から次へと変化する室内景観。どれだけ見ても飽きることのない、圧倒的に手数と情報量の多いインテリア。伝統と革新、開放感と密度、多様な感覚を融和させる懐の広さ。建築やインテリアの専門性だけでは説明しきれない驚きに満ちた空間です。文化資源に敬意と愛情を払いつつ、ただそのままに継承するのではなく、新たに解釈して、誰もみたことのない形になることを恐れずに挑んでいます。真に創造的なライフスタイルが空間として立ち現れる様は、文化財の活かし方の可能性を示すものと言えます。
別荘
大門、中門をくぐった先、敷地の中ほどで庭園に囲まれる別荘は、迎賓の場として設けられました。建築面積131㎡、総二階、入母屋造の豪壮な構えは、往年の絹産業の栄華を示すものとして象徴的です。随所でふんだんに用いられる良質な部材、繊細で手の込んだ造作と見所が多いのですが、居室によって変わる庭園の景観も更に見事で、四季を愛でる催が客人を喜ばせた情景が浮かびます。塀に囲まれた敷地の奥に位置することもあり、これまで世に知られずにあったのが不思議に思えるほどです。
明治期に世界最大の輸出国となった日本の絹産業の中核を担った地域で財を成し、末には銀行業にまで手を広げた川端家の威勢と文化的な豊かさが読み取れます。保全のために外周にガラスサッシを設けつつ、雨戸や戸袋は残すなど原型の維持にも配慮が行き届いています。ここでも、近代和風建築にヴェネツィアから取り寄せたペンダントライトを利かせるなど、住まい手による再解釈と挑戦が行われています。しかし、主屋とは異なりその解釈が建築そのものの改変に及ぶことはなく、川端家のシンボルともいうべき別荘の姿は忠実に維持されています。住まい手の文化資源を保全、活用していく意識の高さがうかがわれます。
大門
明治期、別荘と同じ頃に建てられたと思われる東に面した正門。総欅造、切妻、瓦葺。外側の天井は桟のない鏡天井、内側は格天井と凝ったつくり。外から門にむかって右手は番頭部屋となっています。大門をくぐった前庭、水盤越し正面に主屋が、右手に内塀と一体になった中門越しに別荘がうかがえます。
中門
昭和14年頃、内塀と共に整えられた数寄屋風の洗練された意匠の中門。中山道から路地に入り、大門をくぐって前庭、そしてこの中門を抜けると、広い日本庭園に囲まれる総二階の別荘が立ち現れます。中山道沿いの素朴な風景からは、スケールも様相も大きく異なる、別の世界への結界となっています。
Interior
川端家を他の文化財建築と大きく異なるものとしているのがインテリアです。迎賓館である別荘、こちらもすぐに人が住めるほど快適な奥蔵、質蔵(いずれも登録有形文化財)では、文化財建築が本来持っている魅力と、豊かな生活文化の蓄積を持つ住まい手のセンスが、絶妙なバランスを保ちながら川端家でしかできない空間体験を提供してくれています。繰返し様々な形で表れるマリアノ・フォルチュニーによるペンダントライト、鳥かごのモチーフ、和風空間に置かれたソファ、そして時々現れる手仕事(とてもDIYとは呼び難い高いクオリティ)がアクセントとして記憶に残ります。
そして、主たる生活の場となる主屋ではより大胆にインテリアの表現に取り組んでいます。構造は保ちつつも壁をたて、ふかし、開口を設け、四方に開いた階段を挿入し、開放感はありながら変化に富んだ空間として歩いているだけでわくわくします。更にそこに、膨大な知恵と情熱を費やして整えられたことが伺えるファニチャー、ファブリック、色使い、ウォールデコールにアートピース、グリーンや小物と、手数の多い、見事な足し算のインテリアで、決して見飽きない、知的興奮を覚える空間となっています。中でもしばしば目をひくのが蔡嘉子によるドローイング。時にアートとして、時にだまし絵として、壁や柱やファブリックなど至るところに自由自在に様々なタッチで描かれたイメージ。主屋についてはまさに天才が創造性の限りを尽くしたと思えるほど、インテリア、エクステリアに住まい手のお二人の個性が表れています。
そうした文化財と住まい手の緊張感のある関係に、博物館のガラスケースの展示とは異なる「生きている文化財」としての川端家を強く感じるとともに、文化資源の保全と活用の可能性を考える重要なヒントを見出す思いです。
– 主屋のインテリア –
History
川端家の繁栄をもたらしたのは絹産業です。残念ながら川端家の成功についての詳細な情報は十分に研究されていないのですが、何故この場所にこのような文化財が形成されたのか?絹産業という大きな背景の中でこの地域を紐解くことでその理由を類推する事ができます。
明治期、世界最大の生糸輸出国となって以降、絹産業は長く基幹産業として日本の近代化を支えてきました。江戸時代から養蚕が盛んで交通の便にも恵まれた群馬は、生糸の集散地として栄え、富岡製糸場や鉄道網など投資も行われて絹産業の拠点となります。生産だけでなく仲買や輸出に関わって成功する者も多く現れました。川端家もそうした流れの中に位置づけられます。以下に、もう少し丁寧に整理してみます。
中央に立って陣頭指揮を執っているのが川端齋三郎
Story
近代史のうねりの中で、中国から台湾に渡った文人の素養豊かな家に蔡兆申は生まれました。その後東京に育ち、建築を志しますが、より広い世界を求めてカリフォルニア大学バークレー校で量子物理学を学び、研究者として活躍します。川端家に生まれた嘉子もまたアメリカに暮らし、様々な国や地域の暮らし、そして建築、文学、アートに親しみ、そうして培った感覚を、インテリアや庭園を含めたライフスタイルのデザインに闊達に表現し、高い評価を得ていました。
出会い、魅かれ合った二人が長い時間と情熱を注いだのが、住む者も絶え、荒んでいた川端家の再興でした。絹産業の大きな歴史の中で一時、世界と交わった土地に生まれた奇跡のような場所。それが知られることもなく輝きを失いつつありました。それぞれに豊かな世界に生きた二人だからこそ、この場所の魅力を理解して、今の世に伝えられるように翻案して、再生することができたのです。他の誰でもなく、蔡兆申と嘉子が川端家に新しい命を吹き込みました。
今、二人が長い時間を過ごした主屋のそばに、蔡嘉子を偲ぶべく彫刻が置かれ、碑文が添えられています。
お問い合わせ
川端家住宅を管理する川端保全社は、文化資源としての価値を保ちながら、活用していくための方法を検討しています。取材、催事などにご関心のある方はこちらからお問い合わせください。
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